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石井一久 引退 ヤクルト黄金期の名投手 [スポーツ]

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ヤクルト黄金期の名投手、石井一久選手が引退を表明しました。

石井一久選手いうと、90年代、あの名将野村克也監督率いるヤクルト黄金期の中心選手。

いや~今思えばヤクルトとかも優勝していた黄金期があったんですね。
では石井一久選手のプロ野球人生を振り返ってみましょう!


1992年ヤクルト入団、ドラフト1位での入団でした。
将来のエース候補として期待され背番号は16番。

1995年初の規定投球回数到達と2ケタ勝利を達成しリーグ優勝に貢献。

1997年には横浜ベイスターズ戦で、65人目のノーヒットノーランを達成しました。
このあたりから名投手として道を歩んでゆくのですね。


1998年には最多奪三振を獲得し、さらにシーズン三振奪取率11.047の日本新記録を達成。

1999年には2年連続の開幕投手を務め、初の開幕勝利を記録しました。

2000年、セ・リーグの最優秀防御率と最多奪三振の二冠に輝き、セ・リーグを代表する投手となりました。

2001年には4年連続の開幕投手を務め、3年連続開幕勝利。セ・リーグ優勝。そして、日本シリーズも制し、日本シリーズ優秀選手賞も受賞しました。大車輪の活躍でしたね。

また、このシーズンオフにアメリカメジャーリーグ挑戦を発表。
ポスティングシステムにて、ロサンゼルス ドジャースに移籍しました。


2001年というと、同時多発テロのあった年ですね。実はテロの影響で一時ドジャース移籍が危ぶまれていたとの事です。


2002年開幕から6連勝と絶好調、4月はなんと5勝0敗でリーグ月間最優秀投手を受賞。
メジャー移籍最初からこの成績はすごいと思ったのですが…

後半戦は防御率5.57と不調。9月のアストロズ戦にて頭部に打球を受けて、頭蓋骨の亀裂骨折の大怪我でシーズンが終わりました。

2003年は前半戦最後の登板で日米通算100勝を達成し、8勝3敗・防御率2.94の好成績で前半戦を終えるも7月、ヤクルト時代からの古傷だった左膝の痛みが悪化、故障者リスト入りし、靱帯損傷と診断されました。
8月には復帰、日米通算でも自身初の三塁打を記録しました。

2004年、再び開幕3連勝の好調なスタートを切り、前半で10勝を記録するも後半、再び調子を崩し、中継ぎに降格。

2005年、ジェイソン・フィリップスとの交換トレードでニューヨーク・メッツへ移籍。しかし左膝痛が再発、故障者リスト入りや、マイナー降格など調子が戻らず、9月にメジャー再昇格するも3勝にとどまる。。

ヤクルト時代からもありましたが慢性的に怪我に悩まされはじめてますね。やはりプロは体が資本の商売だなと思いますね。
翌年、日本球界に復帰します。

2006年古田敦也選手兼任監督に就任したヤクルトに復帰。中日戦で、史上48人目となる日本通算1500奪三振を達成。江夏豊の1423投球回を抜く日本プロ野球最速での達成となった。
この時の事は覚えています。(私は中日ファンだったので試合を見てました。)

2007年、前年に取得していたFA 権を使い西武ライオンズに移籍。

2008年には福岡ソフトバンクホークス戦で日本通算100勝を達成。西武ライオンズもリーグ優勝し、日本シリーズにも登板しました。

2009年、5月に古巣ヤクルトから勝利し見事、日本プロ野球全球団から勝ち星を上げました。

2011年には先発ではそれほど活躍できなかったが、8月のソフトバンク戦でプロ20人目となる通算2000奪三振を江夏豊を超える最速記録で達成。

2012年は、4年ぶりとなる2桁勝利を達成したが10勝以降は勝ち星がなく相変わらずシーズン後半に不調に陥る印象は変わらなかった。

そして2013年引退表明。

そういえば、神田うのさんなんかともお付き合いしていたみたいですし、奥様は元フジテレビのアナウンサーの木佐彩子さん。
夜も奪三振王だったのでしょうね。羨ましい~

それはさておき、今後は未定とのことですが、タレント性もありますし、テレビなんかで活躍出来そうなきがします。
なにわともあれ、今までの野球人生ご苦労様でした。









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